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刺し子の歴史

 日本の伝統民芸とされる刺し子
 刺し子の原点の一つ、綴り刺し(つづりざし)の系譜をたぐると、飛鳥時代の刺衲(さしつづり)にたどりつきます。正倉院御物に納められている糞掃衣(ふんそうえ)と呼ばれる袈裟も刺衲の一つで、釈迦が人の捨てた衣類などの布の切れ端を拾い集めてつなぎ合わせ、裏打ちをしてから細かく縫い刺しをして着用したと言われています。
 刺し子の発祥は定かではなく、青森、山形、秋田、会津、松本、佐渡、東京、飛騨、志摩、阿波、瀬戸内、博多などの全国各地で刺し子が施された仕事着や晴れ着、野良着、手ぬぐい、ぞうきん、ふきん、風呂敷などの古作がみつかっているようです。
 中でも、青森県津軽のこぎん刺し、青森県南部の菱刺し、山形県庄内の庄内刺し子の3つは日本三大刺し子と呼ばれています。
 刺し子は各地域で育まれ、根付いてきたものであり、地域によって少しずつ模様や手法に違いが見られます。また、人が刺したものを横から見ながら覚えたり、町で見た他人の働き着の刺し子を家へ帰ってから思い出しながら刺したりすることもあったようで、それらの過程で少しずつ模様が変化していったとも考えられます。中には自分の覚えた模様を見本刺しに刺して持っていた者もいたということです。
 基本的に、刺し子を施したものは自分や夫、子供など身内のために作られ、売り物としてはあまり流通することはなく、各家庭でボロボロになるまで使われ、捨てられてきたということです。
 それぞれの地域の刺し子がどのように関係し、影響しているのか、その手法や模様の由来など事細かに追っていくことはとても難しい作業だと思います。
 文明開化により、交易が行きかい、生活レベルの向上や技術の進歩により量産品が生産・流通するようになり、刺し子は忘れ去られようとしていたところ、柳宗悦氏らが始めた大正後期から昭和初期にかけて民藝運動により、着目・見直されるようになり、各地での手仕事、民藝品の調査・収集や展覧会が行われるようになりました。それに共感した方々が、古作の収集、研究、創作に尽力され、幸いなことに刺し子は再び日の目を見ることとなりました。
 また、徳永幾久(とくながきく)さんという方が、刺し子の研究に長年取り組んでこられ、高い功績を残されてきたようです。その著書に『刺子の研究 民族服飾文化』があります。他にも多くの方々が刺し子の魅力に魅せられ、葬り去られようとしていた刺し子の品々を探し出し、収集され、刺し子をまだ覚えている高齢の方々に取材するなどして、少しでも伝統民芸の歴史を残そうと奮闘されてきました。こうした活動をされてきた皆様のたゆまぬ努力のもとに、刺し子の歴史や昔の刺し子の手仕事、技法が集録された書籍を今、手にして読めることに深く感謝しております。
 刺し子は、布の補強防寒のために使用されてきたとよく言われていますが、地域によっては初めから装飾、装束、魔除けの用途として使っていたケースもあったようです。
 また、刺し子を施した麻の衣服は、肌にまとわりつくことがないため、夏は日射病を防ぐためにも使われていたようです。
 さらに、西日本においては、博多、瀬戸内(直島、沙弥島、淡路島)、高松市庵治町で刺し子ドンザ、高松市男木島で刺し子ハンチャが収集されています。ドンザと呼ばれる漁民の作業着は布を何枚も重ねて刺すことによって、冷たい海水から身を守ったり、布の間に空気の層ができ浮き袋の代わりになっていたようです。幾何学模様が刺してある漁民のドンザが数点みつかっているほか、大漁を祈願したのか恵比寿様など刺繍のように刺されたドンザもあり、晴れ着として使われたのではないかと推測されています。(杉野公子(2008)『刺し子 -変化する伝統-』)
 刺し子をすると布が丈夫になることから、江戸では火消の刺子半纏(さしこばんてん)手套(しゅとう|手袋のようなもの)頭巾にもびっしりと縦刺しが施されました。火事半纏は火事装束の一つであり、江戸時代、実用性とともに意匠をこらした火事装束が上流階級に流行しました。本格的な火事羽織は革製であり、大名火消に属する人々や町火消の組頭が着用する正式な装束でした。その他の町火消の人々には刺子半纏が用いられました。
 刺し子の模様は、規則的なパターンを繰り返す幾何学文様であったり、身近な動植物などの具象文様であったり、単純な並縫いであったりと多種多様です。保温、避暑、補強などの用途として使われたり、子の成長、豊作、魔よけ、商売繁盛など、願いや祈りを込められたり、模様の大きさで年齢、富や豊かさを表したり、地域によっても特色があるようです。
 一部地域では、男性物は紺地に紺糸、女性物は紺地に白糸と区別して使用されていたという話もあります。
 また、1600年代、1700年代においては、藩や幕府により身分によって衣服(色や素材)が厳しく取り締まられたという背景もあり、刺し子には女性としての心意気が表現され、せめてものおしゃれを楽しんでいたとも言われています。
 日本人が藍で衣服を染め始めたのは、飛鳥時代のことで、宮廷に仕える人々の衣服に用いられました。江戸時代になると庶民にも広まり、日本の8割もの人々が藍染めの衣服を着ていたそうです。庶民の人々は、幕府からの様々な制約のもと、知恵を出し、美しい藍染めの文様・柄を作りだしていったようです。当時、染物屋を「紺屋」と呼び、1つの町に1軒は紺屋があったそうです。それまで、庶民の衣服は植物の繊維(麻、藤、葛、楮)や絹などの素材がほとんどでしたが、江戸時代になり木綿の着物も普及しました。木綿と藍の相性が良く、藍染めとともに木綿が広く普及したと考えられています。ただし、綿花の育たない東北地方では明治時代になるまで麻で織った衣服がほとんどで、麻糸を女性がいつも紡がなければならない厳しい生活があったようです。
 明治8年にイギリスの化学者アトキンソンが来日した折、日本人の多くが着ている藍染めの着物などを見て、藍を「ジャパン・ブルー(日本の青)」と呼んだそうです。

●柳宗悦氏(1889-1961)
 1925年(大正14)、河井寛次郎・浜田庄司とともに、「民藝」=民衆的工芸の略=という新語を作る。
 柳氏は民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界に着目し、それに共鳴する人々とともに民藝運動を展開。  調査・収集のため、日本各地をめぐり、焼き物、染織、漆器、木竹工などの無名の職人が作り出した民藝品を執筆活動や展覧会活により公表することに精力的に努めた。
 日本民藝館開設以後の柳氏の主な活動としては、沖縄への工芸調査とそれにともなう方言論争、家元茶道への批判、そして民藝美の本質を仏教思想で解明した「仏教美学」の提言などがあげられる。
1931年(昭和6)雑誌『工藝』を発行
1934年(昭和9)日本民藝協会を発足
1936年(昭和11)日本民藝館を開設、初代館長に就任
1939年(昭和14)日本民藝協会機関誌『月刊民藝』創刊
民藝とは何か 民藝運動の父、柳宗悦、日本民藝協会Webサイトを参考・引用

日本民藝館(東京都目黒区駒場)
 柳氏の厳しい審美眼によって取捨された日本民藝館のコレクションは、日本および海外諸国の陶磁器、織物、染物、木漆工、絵画、金工、石工、竹工、紙工、革工、硝子、彫刻、編組品など各分野にわたり、約1万7千点を数える。
 とくに、李朝工芸品(陶磁器、木漆工、金工、石工、絵画など)、沖縄の古陶および染織、大津絵、船箪笥、古丹波焼、古伊万里焼、日本各地の民窯、東北地方の染織(被衣[かずき]、刺子着など)、アイヌ衣裳およびアイヌ玉、イギリス古陶(スリップウェア)などは、その質の高いことで広く知られている。また柳宗悦と美の認識を同じくする多くの近代工芸作家たちの作品も数多く所蔵されている。
民藝とは何か 「手仕事の国」で生まれた民藝品の数々 、日本民藝協会Webサイトより引用


●徳永幾久氏(1919年生まれ)
 山形県の被服、殊に刺し子の研究家で、山形県独特の刺し技法を発見、山形県女性の生活文化の価値を全国に紹介した。  米沢藩の花雑巾、山形紅花商人の刺し風呂敷の研究は全国的な刺し子研究の端緒となった。
「山形県ホームページ 齋藤茂吉文化賞受賞者21-30回」より引用。
 徳永氏は昭和40年代に山形県遊佐を訪れ、数年にわたり調査、収集に精力的に行った。
徳永氏の絶版の書籍や論文は国立国会図書館で閲覧することができました。

こぎん刺し

 江戸時代に始まったとされる津軽のこぎん刺しに伝わる由来。
 綿花が育たない東北地方で、藩は津軽の農民に木綿の着物を着ることを禁じました。人々は厳しい冬の寒さを防ぐために、限りある木綿古着を麻布の裏にあてたり、つぎはぎをしたりして布を補強し、手に入る少量の木綿糸で布一面に刺したのではないかと言われています。
 青森では縄文時代より麻を栽培し布を作っていたと考えられいます。温暖な地域では綿花が盛んに栽培され、庶民にもすでに木綿の着物が普及していたとされる江戸時代でさえも、青森では麻糸で麻布を織り仕事着、常用着を作っていたようです。この地域に木綿布が普及したのは明治中頃から大正初期になってからと言われています。(田中忠三郎『みちのくの古布の世界』河出書房新社)
 江戸時代中期には津軽にも日本海交易によって木綿糸は入ってきていますが、木綿が農家まで豊富に行き渡ったかどうか、民衆が気軽に手に入れられる値段だったのかどうか・・・。農民にとっては、木綿糸・布は高価なもので、衣服をすべて木綿でまかなうのは経済的にも容易ではなかったかもしれません。
 おそらくはじめの頃は麻糸もしくは苧麻(からむしというイラクサ科の植物)の糸が刺し糸として使われていたのではないかと推測され、いつ頃から木綿糸が使われるようになったのか明らかになっていません。
 こぎん刺しは藍染の麻布に白い木綿糸というのが定番でした。江戸時代には全国的に藍染めの衣服が普及していたようです。藍染には糸を強くする、虫よけ、マムシなどへびをよせつけないと言われており、農作業などではその効果を発揮したかもしれません。
 こぎん刺しは東こぎん(弘前市東部)、西こぎん(弘前市西部)、三縞こぎん(北津軽群の金木町)の3つの地域で刺され、それぞれ特色があるようです。基本的には地布の縦糸を奇数で横刺しして、幾何学模様を作り上げる手法で縦長の菱形が中心となり、40数種類の模様で構成されていたようです。
 明治に入り、木綿糸が豊富に使われるようになり、農家の女性達は花嫁修業の一環として刺し子の技術を習得するようになり、こぎん刺しを施した晴れ着も作られるほどになりました。当時、こぎんを刺した着物(自分用と夫用)を嫁入り道具として、数着持っていく慣わしもあったようです。
 しかし、明治時代中期、東北本線が開通されてからは、たくさんの物資が流通するようになり、こぎんは以降、衰退の一途をたどります。
 そんな時を経て、大正後期から昭和初期にかけて柳宗悦氏らの民藝運動により、こぎん刺しや菱刺しなどの民藝が見直され、古作の収集・調査がなされ、それに共鳴した方々による創作も再開されました。

南部菱刺し

 南部菱刺しはこぎん刺しと同じく江戸時代に始まったと考えられ、主に八戸を中心とした青森県東部、三戸、五戸、七戸、上北町、館、下田、市川地方で刺されています。
 菱刺しは浅葱色の麻布を表地、古着の木綿を裏地として、当初は麻糸を使用し、木綿糸が流通し始めて(明治時代)からは白黒の木綿糸で刺すのが一般的でした。
 大正時代には、農村部にも色毛糸が流通するようになり、麻布に色とりどりの毛糸を刺した希少な装飾も生まれました。前掛けや子供の足袋に丁寧に、そして色鮮やかに刺していたとあります。その色は南部の色使いとして親しまれ、まるで南部の自然をそのまま菱刺しに反映させたような独特な彩りだったそうです。人から人へと刺し継がれ、残った模様は数百種類にも及ぶということです。
 嫁入り前の娘達が夜集い、囲炉裏の周りで菱刺しを楽しみ、誰が一番多く刺し子の種類を刺せるかを競いあったりもしたという話しも残っています。器用で裁縫の上手な娘は嫁入り先に事欠かないと言われ、親は我が娘に、子供の頃より熱心に刺し子を教えました。不器用で裁縫ができない娘は、嫁のもらい手がなかったり、他所に頼んで嫁入り道具の前かけを刺してもらったり、嫁ぎ先では姑に代わりに針仕事をしてもらったりと大変肩身の狭い思いをしたようです。(八田愛子・鈴木堯子『菱刺しの技法』美術出版社)
 個人所有の古作の中には一枚の布に、びっしりと赤や紫、緑など彩り豊かな糸で、何種類もの菱刺しの模様が刺された見本刺しが残っているようです。
こぎん刺し同様に民藝運動後に古作の収集・調査が活発になり、模様はグラフに図案化され、何百と言う新しい模様も考案されました。

●田中忠三郎氏(1933-2013)
 青森県に生まれ育つ。民俗学者・民俗民具研究家・著述家、浅草のアミューズミュージアム名誉館長。
 2万点以上に及ぶ民具・衣服などの貴重な日本のアンティークコレクションの収集に奔走。
 2012年、青森県立郷土館にて、田中忠三郎氏が長年にわたり収集した津軽・南部のさしこコレクション786点から200点余を厳選し「さしこ~重文・田中忠三郎着物コレクション」というイベントが開かれた。このイベントの際に出版されたと思われる『津軽・南部のさしこ着物 : 重要有形民俗文化財田中忠三郎着物コレクション : 786点オールカタログ』(青森県立郷土館/2012年)が青森県立郷土館にて販売、郵送で取り寄せ可能。
 田中忠三郎氏の収集したコレクション(縄文遺跡の考古学資料約1万点、民俗資料を含む約2万点)は、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に収蔵。
 また、田中忠三郎氏の著書に、『南部つづれ菱刺し模様集』(北の街社/1977年)という391もの菱刺しの模様が収められた貴重な図集がある。千部限定で出版され現在は絶版。
 NDL-OPACで検索したところ、田中忠三郎氏の著書の多くは、国立国会図書館 東京本館・新館に所蔵があります。

庄内刺し子

 庄内地方(山形県鶴岡市、酒田市、遊佐町、庄内町、三川町)の冬は、内陸部と比べ雪は少ないですが、日本海から吹き込む季節風は地吹雪を引きおこし、人々の肌を突き刺しました。そのため農民達は、丈夫な厚手の仕事着を身にまとい寒さをしのぎました。仕事着には、藍染の木綿を刺したサシコジバンサシコソデナシ、裂布を織ったサゴリなどがありました。また、酒田市に属する日本海に浮かぶ離島、飛島(とびしま)の漁家に残る漁業用仕事着(ドンザ)に刺されたウニやヒトデを文様にしたガンゼ刺しやマチゲ刺し、ジャンバラ(海草)刺しなどがあり、これらは飛島刺し子と呼ばれています。
 庄内の人々は山と海に囲まれた雄大な自然の中で、生き物や植物を愛でる気持ちが刺し子にあらわされたようにも感じます。
 元禄時代、すでに最上川水運を数多くの川船が行き交っていました。庄内の米をはじめ、内陸の米、紅花、青苧(あおそ)、漆、たばこなどの山形県の特産品が北前船に乗せられ京、大坂にのぼり、塩、木綿、茶などが出羽庄内「酒田港」へ運びこまれました。この北前船による交易は、酒田の商人は多大な富を築き、交易品とともに上方の文化も取り入れられるようになり、民衆の生活をも潤しました。米どころ、庄内は私が以前、思っていたよりも豊かで活気のある地域であったに違いありません。このため、この地域においては、一般的に言われる「刺し子は民衆の貧しさから生まれた」とは少し事情が異なるようです。
 このような時代背景から庄内地方は綿の古布が入手しやすかったと考えられ、庄内刺し子では藍染の木綿布に白い木綿糸で刺す手法が広く伝わっていました。北前船(きたまえぶね)が上方(江戸時代で京都や大阪を初めとする畿内)から運んできた陶磁器や染織物の古布にほどこされた吉祥文様などを見本に、刺し模様として編み出したりしたこともあったのではないかと推測されます。
 一部、白木綿に藍や黒の糸で刺し子をした物もあり、深山信仰に深く関わる行事に際して使用されていたのではないかと考えられています。また、浅黄色の脚絆に刺し子を施した物が山参りの衣装として使われたとも言われています。

 また、荘内藩主は江戸時代、領民に刺し子を奨励しておりました。華美を嫌った酒井のお殿様が奨励したとも言われる隠れ刺し(かくれざし)を施した刺し子着もみつかっています。隠れ刺しとは、藍染の布に白木綿糸で刺した後、仕上げに全体に藍を掛け、刺し子を目立たなくするというものです。藍をかけることによってさらに丈夫になったということもありましょうが、時代背景から考えると、農民に質素倹約を強いた結果、生まれた物かもしれません。
 庄内平野の農村部では、嫁入り道具の一つとして一生着られるだけのでたち着物〈農作業時に着る着物)を用意する風習がありました。「嫁に来て年老いて亡くなったときに、まだ手の通してない刺し子着が一枚も残っていないことは、恥ずかしいことだ」という話も残っているそうです。一部の庄内農家では、嫁を教育するために足袋刺しというものも行われていました。

(佐藤いづみ 他 遊佐刺し子に遊ぶ、続遊佐刺し子に遊ぶ より一部引用)

花風呂敷(はなぶろしき)

 江戸時代、紅花や青苧の売買で大きな利益を得た山形の町方商人たちは、家紋や屋号を大きく記した看板風呂敷、あるいは大暖簾(のれん)を店前や門前に下げ、格式ある家柄を誇示していました。行商用に背負って歩く風呂敷にも、家紋や屋号入りの暖簾を使って自己宣伝の一つとする風潮があったり、嫁入り道具を包む風呂敷にも嫁ぎ先の家紋を入れることもありました。これらの風呂敷は染めを京都に依頼しましたが、一枚の染代は米一俵という高価なものでした。
 このように、京染の風呂敷や暖簾は上方との交流を持つ商家としての存在を示す一つのシンボルになっていましたが、地元の特産物を扱って収益を増やした在方の豪農や商人たちも成長するにつれ、町方商人たちのこういった風習にあこがれ、模倣するようになっていきました。
 ところが、京染風呂敷の染代金が高価なため、在方商人の妻女の知恵により刺し子による家紋や屋号、さらには鶴や亀、麻の葉、その他京都の友禅風呂敷の文様を模倣した風呂敷が作られるようになりました。また、上方産の古手ものの一部(紬布)を風呂敷の周辺に継ぎ足して大型の風呂敷を作り、上方との交流の一端も表現して心意気を示そうとするようになりました。こうした山形に見られる刺し紋、継ぎ刺し風呂敷は花風呂敷と呼ばれています。
(江戸時代 人づくり風土記6 山形/農文協 徳永幾久執筆箇所 より)

遊佐刺し子

 庄内刺し子の中でも、山形県遊佐町に伝わる遊佐刺し子は、印を付けずに一目ずつ刺す横刺しという手法と、独自の美しい文様とその種類の多さ(書籍で確認したところ70種類以上)が大きな特徴となっています。
 遊佐刺し子の代表的な伝統文様には、そろばん刺し(商売繁盛)、菱刺し(武芸上達、運気盛隆)、蝶刺し、鱗刺し(大漁祈願)、米刺し(五穀豊穣)などがあります。その他に、他の地域でも見られる、柿の花刺し(豊作祈願)、麻の葉刺し(赤子の成長を願う)、杉綾刺し、山道刺し、段刺しなどの刺し文様も使用していたそうです。中には、上杉花ぞうきんで使われる文様に似た文様もみつかっており、歴史上のどこかでなんらかの関連があったのではないかと考えられています。
 これらの文様の数々は、昭和の中頃まで続いた、山から薪を橇(そり)に乗せて麓に下ろす作業の時に着る橇曳き法被(そりひきはっぴ)に刺されてきました。神に祈り、山に入る男衆に着せる橇曳き法被の刺し子は、家族の無事を祈る女性たちの深い愛情と、山岳信仰にもとづいた地域文化に育まれ、根付いてきたものだと言われています。比較的、新しい橇曳き法被は山に入る時に使用し、古くなった橇曳き法被は田の肥撒き橇を曳く時に着るというように、使い分けられていたようです。また、嫁迎えの迎荷背負いの正装としても使われていたことから、橇曳き法被は主に正装、礼装としての役割があったのではないかと考えられます。これを着て山に入ることによって、山の神に対する礼儀、祈りを示したのかもしれません。

上杉花ぞうきん

 その昔、山形県米沢では、旧米沢藩士族の上杉原方衆と呼ばれる半農半士の屯田兵の妻女たちによって雑巾刺しが作られていました。刺し子研究(特に米沢藩の花雑巾、山形紅花商人の刺し風呂敷の研究)で著明な徳永幾久さんによって、この地方に見られる雑巾刺しを上杉花ぞうきんと名付けられました。
 米沢藩の上杉景勝は元々、会津若松城を拠点に米沢、庄内を領していた藩主で、後に減俸処分を受け米沢へ移されました。江戸時代中期以降、その家臣の生活は困窮し、苦難を強いられていました。
 江戸時代、この地方では客人は門前の川で下駄ごと足を洗ってから座敷に上がる習慣があり、その足を拭くため、どの家の戸口にも雑巾刺しが置かれていました。とりわけ、身分の高い客人には足置き布つきの雑巾刺しをも用意していたと言われています。これは、その客人の足の寸法に合わせた足置きの四角い布を縫い付けたぞうきんで、足置きの布のまわりには縁起物の模様を刺し、歓迎の気持ちを表しました。
 原方衆の妻たちは訪問の意図や客人の身分に合わせて多数、雑巾刺しを用意していたということで、その心意気には本当に頭が下がります。
当時、裁ち縫いの技術・速度、心構えは士族の妻の資格を問うものだったそうで、武家の家訓にも女のしつけとして針の道の厳しさが語られていたそうです。藩の厳しい財政の中、武士という身分でありながらも農業を営むかたわら、妻女たちは士族としての身分を誇示するため、裁縫の力量を雑巾刺しに表現しました。おそらく、そこには妻の上級武士への復活への望みと、夫の士族意識を奮い起こし、夫を武士として支えてきた強い信念が込められていたのでしょう。
 上杉花ぞうきんは独特な手法で作られており、ぞうきんの面を亀甲文や松皮菱で分割し、その区画の一つ一つに、稲、麻、紅花、柿花、銭、ソロバン、矢羽根など、農産物の豊かなみのりや生活の安泰、出世などを象徴する文様を選んで刺されました。こちらも藍染の布に白い木綿糸で刺すのが主流だったようです。
 元々、亀甲文や松皮菱は武将の子息が元服する際に着用する裃(かみしも)の模様なのだそうです。また、麻や紅花は原方衆にとって大事な収入源でした。
 妻女たちは一枚のぞうきんに色々な刺し文を祈りを込めて縫いこみ、その種類の多さを競いました。このようにして上杉独自の図柄が生まれました。ぞうきん一枚が二百にもあまる区画で割られ、その区画にそれぞれ別の刺し文を施したものもあるというのですから、それはそれは見事なものなのでしょう。
 一家の繁栄、子どもの成長を祈る模様の数々は、産着や仕事着にも施されるようになり、その地に残る生活文化として伝承されるようになりました。祈りを強調したい時は、働き着のなかに文字そのものを刺しました。枡刺しの間に土・水・日・木・花などの文字を刺し入れたりしていたようです。
 現在も原方刺し子として人々に継承され愛されています。原方刺し子には、その地に由来する米刺し、麻の葉刺し、矢羽根刺し、小鳥が千羽、口刺し(半農半士のモチーフ)、銭型刺しなど、その刺し文様は80種類以上あります。また、原方刺し子には針目に糸を通して模様を作るくぐり刺し(通し刺し)という技法があります。

百ハギギモン

 山形県の藩政時代は冷害に見舞われることが多く、そのため大凶作、大飢饉が起こると藩財政は逼迫し、そのしわ寄せは農民の肩にかかりました。農民の中には栄養失調で死亡する者も多く、死産も増え、ついには着せる衣類もなく生まれたばかりの赤子の命を絶つ間引きさえする者も出てきました。当時、衣服や食べ物の不足のため、赤子を間引きすることは、他の地域でも行われていたようです。お産に呼ばれた産婆さんは家の中を見回し、衣類がないとわかると、生まれたばかりの赤子を塩叺(しおかます)という袋に入れ、足でつぶしてその命を絶ちました。この間引きの行為はビッキツブシと呼ばれ、そんな哀史の中、生まれたのが継ぎ刺しの産着百ハギギモンです。百ハギギモンは六十歳以上の健康で幸せな老女の衣類の端切れを百枚集めて縫い綴られた産着です。こうして実家の母や隣近所の女たちによって、魔除け、厄除け、長生き、福寿の祈りを込めて作られた百ハギギモンはお産の近い産婦の枕元に置かれました。貧しさゆえに生まれた庶民の知恵、地域の人々の支えによって、小さな命は守られたのです。
 また、この地には前後身頃いっぱいに太陽の模様、その周りに吉祥文様の宝づくしを刺した産着も作られました。女性たちは間引きされた赤子に太陽の下で宝に囲まれて遊ぶ天国を与えたいという思いを込め、あるいは子どもを太陽そのものと見立てて刺していたのかもしれません。
(江戸時代 人づくり風土記6 山形/農文協 徳永幾久執筆箇所 より)
※宝づくしとは、中国から伝わった宝ものを集めた文様です。「如意宝珠」、「隠れ蓑」、「隠れ笠」、「打ちでの小槌」、「宝やく(鍵)」、「金嚢(金銭を入れる巾着)」、「分胴」、「丁子」、「花輪違い」、「宝剣」、「法螺」などです。福徳を招く模様として、祝儀の着物や帯などによく用いられます。

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