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刺し子の歴史

 日本の伝統民芸とされる刺し子
 刺し子の原点の一つ、綴り刺し(つづりざし)の系譜をたぐると、飛鳥時代の刺衲(さしつづり)にたどりつきます。正倉院御物に納められている糞掃衣(ふんそうえ)と呼ばれる袈裟も刺衲の一つで、釈迦が人の捨てた衣類などの布の切れ端を拾い集めてつなぎ合わせ、裏打ちをしてから細かく縫い刺しをして着用したと言われています。
 刺し子の発祥は定かではなく、青森、山形、秋田、会津、松本、佐渡、東京、飛騨、志摩、阿波、瀬戸内、博多などの全国各地で刺し子が施された仕事着や晴れ着、野良着、手ぬぐい、ぞうきん、ふきん、風呂敷などの古作がみつかっているようです。
 中でも、青森県津軽のこぎん刺し、青森県南部の菱刺し、山形県庄内の庄内刺し子の3つは日本三大刺し子と呼ばれています。
 刺し子は各地域で育まれ、根付いてきたものであり、地域によって少しずつ模様や手法に違いが見られます。また、人が刺したものを横から見ながら覚えたり、町で見た他人の働き着の刺し子を家へ帰ってから思い出しながら刺したりすることもあったようで、それらの過程で少しずつ模様が変化していったとも考えられます。中には自分の覚えた模様を見本刺しに刺して持っていた者もいたということです。
 基本的に、刺し子を施したものは自分や夫、子供など身内のために作られ、売り物としてはあまり流通することはなく、各家庭でボロボロになるまで使われ、捨てられてきたということです。
 それぞれの地域の刺し子がどのように関係し、影響しているのか、その手法や模様の由来など事細かに追っていくことはとても難しい作業だと思います。
 文明開化により、交易が行きかい、生活レベルの向上や技術の進歩により量産品が生産・流通するようになり、刺し子は忘れ去られようとしていたところ、柳宗悦氏らが始めた大正後期から昭和初期にかけて民藝運動により、着目・見直されるようになり、各地での手仕事、民藝品の調査・収集や展覧会が行われるようになりました。それに共感した方々が、古作の収集、研究、創作に尽力され、幸いなことに刺し子は再び日の目を見ることとなりました。
 また、徳永幾久さんという方が、刺し子の研究に長年取り組んでこられ、高い功績を残されてきたようです。他にも多くの方々が刺し子の魅力に魅せられ、葬り去られようとしていた刺し子の古作を探し出し、収集され、刺し子をまだ覚えている高齢の方々に取材するなどして、少しでも伝統民芸の歴史を残そうと奮闘されてきました。こうした活動をされてきた皆様のたゆまぬ努力のもとに、刺し子の歴史や昔の刺し子の手仕事、技法が集録された書籍を今、手にして読めることに深く感謝しております。
 刺し子は、布の補強防寒のために使用されてきたとよく言われていますが、地域によっては初めから装飾、装束、魔除けの用途として使っていたケースもあったようです。
 また、刺し子を施した麻の衣服は、肌にまとわりつくことがないため、夏は日射病を防ぐためにも使われていたというケースもあるようです。
 さらに、西日本においては、博多、瀬戸内(直島、沙弥島、淡路島)、高松市庵治町で刺し子ドンザ、高松市男木島で刺し子ハンチャが収集されています。ドンザと呼ばれる漁民の作業着は布を何枚も重ねて刺すことによって、冷たい海水から身を守ったり、布の間に空気の層ができ浮き袋の代わりになっていたようです。幾何学模様が刺してある漁民のドンザが数点みつかっているほか、大漁を祈願したのか恵比寿様など刺繍のように刺されたドンザもあり、晴れ着として使われたのではないかと推測されています。(杉野公子(2008)『刺し子 -変化する伝統-』)
 刺し子をすると布が丈夫になることから、江戸では火消の刺子半纏(さしこばんてん)手套(しゅとう|手袋のようなもの)頭巾にもびっしりと縦刺しが施されました。火事半纏は火事装束の一つであり、江戸時代、実用性とともに意匠をこらした火事装束が上流階級に流行しました。本格的な火事羽織は革製であり、大名火消に属する人々や町火消の組頭が着用する正式な装束でした。その他の町火消の人々には刺子半纏が用いられました。
 刺し子の模様は、規則的なパターンを繰り返す幾何学文様であったり、身近な動植物などの具象文様であったり、単純な並縫いであったりと多種多様です。保温、避暑、補強などの用途として使われたり、子の成長、豊作、魔よけ、商売繁盛など、願いや祈りを込められたり、模様の大きさで年齢、富や豊かさを表したり、地域によっても特色があるようです。
 一部地域では、男性物は紺地に紺糸、女性物は紺地に白糸と区別して使用されていたという話もあります。
 また、1600年代、1700年代においては、藩や幕府により身分によって衣服(色や素材)が厳しく取り締まられたという背景もあり、刺し子には女性としての心意気が表現され、せめてものおしゃれを楽しんでいたとも言われています。
 日本人が藍で衣服を染め始めたのは、飛鳥時代のことで、宮廷に仕える人々の衣服に用いられました。江戸時代になると庶民にも広まり、日本の8割もの人々が藍染めの衣服を着ていたそうです。庶民の人々は、幕府からの様々な制約のもと、知恵を出し、美しい藍染めの文様・柄を作りだしていったようです。当時、染物屋を「紺屋」と呼び、1つの町に1軒は紺屋があったそうです。それまで、庶民の衣服は植物の繊維(麻、藤、葛、楮)や絹などの素材がほとんどでしたが、江戸時代になり木綿の着物も普及しました。木綿と藍の相性が良く、藍染めとともに木綿が広く普及したと考えられています。ただし、綿花の育たない東北地方の一部の地域では明治時代になるまで麻で織った衣服がほとんどで、麻糸を女性がいつも紡がなければならない厳しい生活があったようです。
 明治8年にイギリスの化学者ロバート・ウィリアム・アトキンソンが来日した折、日本人の多くが着ている藍染めの着物などを見て、藍を「ジャパン・ブルー(日本の青)」と呼んだそうです。

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