ホーム > 刺し子の歴史 > 徳永幾久

徳永とくなが幾久きく (1919年生まれ)

 山形県の被服、特に刺し子の研究家。山形県独特の刺し技法を発見、山形県女性の生活文化の価値を全国に紹介した。
 米沢藩の花ぞうきん、山形紅花商人の花風呂敷の研究は全国的な刺し子研究の端緒となった。その著書に『刺子の研究 民族服飾文化』がある。
 徳永氏は昭和40年代に山形県遊佐を訪れ、数年にわたり調査、収集を行った。

上杉花ぞうきん

その昔、山形県米沢では、旧米沢藩士族の上杉原方衆と呼ばれる半農半士の屯田兵の妻女たちによって雑巾刺しが作られていました。この地方に見られる雑巾刺しは徳永幾久さんによって上杉花ぞうきんと名付けられました。
米沢藩の上杉景勝は元々、会津若松城を拠点に米沢、庄内を領していた藩主で、後に減俸処分を受け米沢へ移されました。江戸時代中期以降、その家臣の生活は困窮し、苦難を強いられていました。
江戸時代、この地方では客人は門前の川で下駄ごと足を洗ってから座敷に上がる習慣があり、その足を拭くため、どの家の戸口にも雑巾刺しが置かれていました。とりわけ、身分の高い客人には足置き布つきの雑巾刺しを用意していたと言われています。これは、その客人の足の寸法に合わせた足置きの四角い布を縫い付けたぞうきんで、足置きの布のまわりには縁起物の模様を刺し、歓迎の気持ちを表しました。
原方衆の妻たちは訪問の意図や客人の身分に合わせて多数、雑巾刺しを用意していたということです。
当時、裁ち縫いの技術・速度、心構えは士族の妻の資格を問うものだったそうで、武家の家訓にも女のしつけとして針の道の厳しさが語られていたそうです。藩の厳しい財政の中、武士という身分でありながらも農業を営むかたわら、妻女たちは士族としての身分を誇示するため、裁縫の力量を雑巾刺しに表現しました。おそらく、そこには妻の上級武士への復活への望みと、夫の士族意識を奮い起こし、夫を武士として支えてきた強い信念が込められていたのでしょう。
上杉花ぞうきんは独特な手法で作られており、ぞうきんの面を亀甲文や松皮菱で分割し、その区画の一つ一つに、稲、麻、紅花、柿花、銭、ソロバン、矢羽根など、農産物の豊かなみのりや生活の安泰、出世などを象徴する文様を選んで刺されました。こちらも藍染の布に白い木綿糸で刺すのが主流だったようです。
元々、亀甲文や松皮菱は武将の子息が元服する際に着用するかみしもの模様なのだそうです。また、麻や紅花は原方衆にとって大事な収入源でした。
妻女たちは一枚のぞうきんに色々な刺し文を祈りを込めて縫いこみ、その種類の多さを競いました。このようにして上杉独自の図柄が生まれました。ぞうきん一枚が二百にもあまる区画で割られ、その区画にそれぞれ別の刺し文を施したものもあるというのですから、それはそれは見事なものなのでしょう。
一家の繁栄、子どもの成長を祈る模様の数々は、産着や仕事着にも施されるようになり、その地に残る生活文化として伝承されるようになりました。祈りを強調したい時は、働き着のなかに文字そのものを刺しました。枡刺しの間に土・水・日・木・花などの文字を刺し入れたりしていたようです。
現在も原方刺し子として人々に継承され愛されています。原方刺し子には、その地に由来する米刺し、麻の葉刺し、矢羽根刺し、小鳥が千羽、口刺し(半農半士のモチーフ)、銭型刺しなど、その刺し文様は80種類以上あります。また、原方刺し子には針目に糸を通して模様を作るくぐり刺し(通し刺し)という技法があります。

花風呂敷はなぶろしき

江戸時代、紅花や青苧あおその売買で大きな利益を得た山形の町方商人たちは、家紋や屋号を大きく記した看板風呂敷、あるいは大暖簾おおのれんを店前や門前に下げ、格式ある家柄を誇示していました。 行商用に背負って歩く風呂敷にも、家紋や屋号入りの暖簾を使って自己宣伝の一つとする風潮があったり、嫁入り道具を包む風呂敷に嫁ぎ先の家紋を入れることもありました。 これらの風呂敷は染めを京都に依頼しており、京染の風呂敷や暖簾は上方との交流を持つ商家としての存在を示す一つの象徴となっていました。 しかし、当時、一枚の染代は米一俵という高価なものでした。
一方、地元の特産物を扱って収益を増やした在方の豪農や商人たちも成長するにつれ、町方商人たちのこういった風習にあこがれ、模倣するようになっていきました。
ところが、京染風呂敷の染代金が高価なため、在方商人の妻女の知恵により刺し子による家紋や屋号、さらには鶴や亀、麻の葉、その他京都の友禅風呂敷の文様を模倣した風呂敷が作られるようになりました。また、上方産の古手ものの一部(絣布)を風呂敷の周辺に継ぎ足して大型の風呂敷を作り、上方との交流の一端も表現して心意気を示そうとするようになりました。 こうした山形に見られる刺し紋、継ぎ刺し風呂敷は、花風呂敷と名付けられました。
※青苧とは、カラムシの粗皮を水にさらして細かく裂いた繊維。

百ハギギモン

山形県の藩政時代は冷害に見舞われることが多く、そのため大凶作、大飢饉が起こると藩財政は逼迫し、そのしわ寄せは農民の肩にかかりました。農民の中には栄養失調で死亡する者も多く、死産も増え、ついには着せる衣類もなく生まれたばかりの赤子の命を絶つ者も出てきました。当時、衣服や食べ物の不足のため、赤子を間引きすることは、他の地域でも行われていたようです。
お産に呼ばれた産婆さんは家の中を見回し、その家に衣類がないことがわかると、生まれたばかりの赤子を塩叺しおかますという袋に入れ、足でつぶしてその命を絶つこともあったそうです。この間引き行為はビッキツブシと呼ばれ、そんな哀史の中、生まれたのが継ぎ刺しの産着百ハギギモンです。百ハギギモンは六十歳以上の健康で幸せな老女の衣類の端切れを百枚集めて縫い綴られた産着です。 実家の母や隣近所の女たちによって、魔除け、厄除け、長生き、福寿の祈りを込めて作られた百ハギギモンはお産が近い産婦の枕元に置かれました。貧しさゆえに生まれた庶民の知恵、地域の人々の支えによって、そうして小さな命は守られてきました。
また、この地では前後身頃いっぱいに太陽の模様、その周りに吉祥文様の宝づくしを刺した産着も作られています。
※宝づくしとは、中国から伝わった宝ものを集めた文様です。「如意宝珠」、「隠れ蓑」、「隠れ笠」、「打ちでの小槌」、「宝やく(鍵)」、「金嚢(金銭を入れる巾着)」、「分胴」、「丁子」、「花輪違い」、「宝剣」、「法螺」などです。福徳を招く模様として、祝儀の着物や帯などによく用いられます。

(『江戸時代 人づくり風土記6 山形』/農文協 徳永幾久執筆箇所 を参考)
inserted by FC2 system